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日本のKamisamaとは?

私の相方はアメリカ人です。生まれた時にキリスト教の洗礼を受けた人ですが、成長過程で思うところがあったようで今はキリスト教から離れています。しかも、結婚するときは相方自ら「神前式であげたい!」と、普通ならば結婚式のスタイルは新婦の願いを叶えるだろう所、我々の場合は新郎の希望で神前式であげました?

そんな感じなので、私も海外のキリスト教についてはよくわかりません。相方の実家は敬虔なクリスチャンですが、キリスト教の定義については私が質問したり聞いたりした事もありません。義妹とも毎日のように色々話すけど宗教に関してはほぼ話したことがありません。

ある日、日本に帰国した際、とある神社で義妹に御守りを入手しようとしました。そうしたら、相方から「あ、やめた方がいい」と制止されました。なんで?と聞くと、キリスト教徒が他の宗教のアイテムを持つのは良くない、他の宗教に足を突っ込むと地獄に落ちる、という理由からだとの事?

…日本に生まれた日本人にはわからない感覚ですよね、これ?しかも地獄に落ちるなんて怖い事言いますね?また義妹の結婚式では参列者が次々と牧師さんの元に行くので自分もと思ったら、スーさんから制止された事があります。牧師さんからウェハース(パン)がもらえるのは洗礼を受けた人だけ、と。除け者にされた感がありましたが、パンはキリストの体の象徴なので確かにキリスト教信者ではない者が食べるのは違和感ありますね。スーさんも私の為に牧師さんの前に行きませんでしたが、参加できなかったのが悲しかったです?

以前、どこかの本で日本の神様(kamisama)は世界の他の宗教での唯一神(god)とは違う、日本の神様(kamisama)=高級霊(Higher Spirit)だ、という記述を読みました。妙に腑に落ちる。日本ではどこにでも神様がいて「八百万の神」と呼ばれています。アニミズムですね。その八百万の神々は日本のどこにでもいるし、その中には神社に祀られている神さまもいるし、祟りを恐れて祀られた荒ぶる神もいる。それらの神様全てではないけど神社に参拝に来る人々の願いを叶えたり日々の生活のサポートに邁進している神様もいる。人間から神様として祀られるようになった神もいる。神道には経典も戒律もないし、このように教祖もいない、信者になるルールも何もない。日本という国に生まれたら皆神道の一員だけど、キリスト教のように洗礼もないし強制ではないから日本人でも神道に興味もなければ宗教自体に興味にない人もいる。むしろ宗教を嫌っている人さえいる。だからといってその人たちが批判されるわけでもない。他宗教の人が神社でお願い事しても何も言われないし、嫌な顔もされない。とある神社の崇敬会に入っている日本人が他国の教会や聖堂に行ってお祈りしても日本の神様が怒るわけでもなく神道的に問題になるわけでもない。海外から来た観光客の中には神社の境内に入っても神前に行って神様にご挨拶する事もなく、完全に観光目的だけで写真を撮って立ち去る人もいます。それでも日本の神様側は誰でもウェルカムです。ただ、最近驚くのは海外からの人でもちゃんと日本の神社でのしきたりを守っている方が増えている所です。日本の神社仏閣を尊重してくれてありがとう☺️

日本最古の神社は諸説ありますが、例えば一説では奈良県の大神神社があります。あまりにも古くて創建年不詳ですが、御神体である三輪山の磐座群は縄文時代には既に祭祀場として使われていたとも言われています。そうすると一万年前には信仰の場であったという事。古神道というのかな、神道の起源となるものが生まれていたと言えます。(ちなみに、日本神話が描かれた「古事記」の編纂は712年です)その後、5世紀から6世紀の間に日本に仏教が伝来して神道と融合して日本では神仏習合という柔軟な宗教観が体系づけられて、それが自然と日本人の生活に馴染み、日本人の生活に溶け込んでいます。今でも食事の前にその食材、それを生み出した神様、育ててくれた人々、食事を作ってくれた人への感謝を込めて「いただきます(itadakimasu)」と言うのはその良い一例です。明治時代に廃仏毀釈運動が起こり、神社とお寺が分離しましたが、長い歴史の間では日本の神道と海外から来た仏教が仲良く同居していたのも、神道の懐の深さや柔軟さを感じます。

日本には「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」、それから「ケガレ(穢れ)」という概念があります。「ハレ」は非日常、よろこび事、お祭りなど。「ケ」は日常。「ケガレ(Kegare)」はお葬式などの不幸事とよく説明されます。これをベースにすると、神道は「ハレ」の世界で、例えば生理中の女性や喪中の人は神社の境内に入らない方が良いとされています。それは死の世界を身に纏っているからとされます。日本の神様は「死」=「ケガレ(Kegare)」を嫌うためです。一方で仏教は「ハレ」から「ケガレ(Kegare)」までどんとこい、です。そのようなわけで神道では結婚式が多く、日本では人が亡くなると仏教で送り出される人が多いです。

私は高野山のアメリカにある別院(仏教寺院)に通っていますが、そこで知り合ったアメリカ人の男性と話しました。私が「日本での滞在中には◯◯神社に行ったり、◯◯のお寺にも行きました」と話したら、その男性がものすごく不可解な顔をしていました。今思うと、彼は「なぜ仏教徒なのに神社にも行ってるんだ!?」と疑問に思ったのでしょう。私は仏教徒なのでしょうか?日本で生まれた日本人は神道と仏教が合体したものに帰依してる、という感じでしょうか?

日本の宗教観は非常に柔軟性に富み、神道と仏教がうまく混ざり合って生活に溶け込んでいます。他の国から見たら唯一神ではないというのも異質だろうし(ギリシャ神話、北欧神話、ケルト神話など、大昔の宗教観??)、ちょっと理解が難しいかもしれないですね?ネットでよく見かけるのは、日本人で「自分は無宗教」だとか「無神論者」だという事を言う人がいます。20代の頃の私もそうでした。旅行で行ったパリで「神道?」と聞かれた時に友達と一緒に「違います〜?」と答えていました。 自分が宗教に所属している意識は全くなかったし、日々お祈りをするような宗教的な行いもしていない、そう言う意識さえない、逆に「宗教」という目に見えない不確かとも言えるものに心を寄せていると思われたくなかったのかもしれません。こういう日本人の意識は戦前と戦後で随分変わっているのではないかと思います。

これには現代の日本で宗教というとカルトと結びついてしまうことが多々あることが一つの原因だと思います。日本国内で「宗教」というものに「ヤバいもの」という意識や拒絶反応があるんだと思います。特に、私が大学の頃は御茶ノ水駅前に宗教団体(カルト)の人々がよく出没して声をかけられました。また大学のサークルはとある宗教団体(カルト)の勧誘の場になっているという噂もありました。また、あのオウム真理教の事件はあまりにもショッキングな内容でした。しかしながら、多くの日本人がお正月になったら神社に初詣に行くし、親族が亡くなったらお寺でお葬式を出します。七五三やお宮参りなどの行事も行います。そして、基本的な道徳観念も長い歴史の中での神道や仏教の教えがベースとなった日常生活で自然と身に付いているはずです。ちょっと脱線すると新渡戸稲造は「武士道」の中で日本人の道徳感は武士道から来ていると書いていましたが、武士道精神も確かにあると思います。アメリカに住んでいる自分から見ると、日本人は物事の良し悪しにちゃんと線引きがあって、心のブレーキが自然とかかる人の割合が多いと肌で感じます。日本人自身が気が付かないだけで神道や仏教の教えが自然と根付いている、神の存在(この場合は特にお天道様)を無意識下で持っているからこそだと思います。日本人の言う「無宗教」や「無神論」(この二つには実際には大きな乖離がありますが)は、欧米の人たちの言うそれとはニュアンスが違うような気がします?

昔の日本人は大体こう言われて育っています。

「お天道様がいつもあなたを見ているよ」

お天道様(おてんとうさま)とは太陽の事ですが、農耕民族の国日本では太陽がとても大切なもので、日本神話での最高神である天照大神は太陽神です。お天道様に恥ずかしくないよう、悪い事をしないよう生きていきなさいという言葉を多くの日本人は小さい頃から植え付けられています。また逆も然り。自分が理不尽な目にあっていても、頑張って努力している姿をお天道様はしっかり見てくれています?昔ほどでないにしろ、今でもこれを子供に言う日本人の親は多いと思います。「お天道様が見ている」は立派な宗教観ではないでしょうか。スーさんにはここまで長々と日本の宗教観について自分の考えを述べた事はありませんが、なんとなく理解はしてくれているようです。そして、日本のこの宗教観、神道の「ゆるさ」的なものはスーさんも気に入っているようです。またその「ゆるさ」ゆえ、とても平和な宗教観だなぁとも思います。

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